2014年10月04日

旅籠油屋(小郡市松崎)

何度も行っている小郡市(福岡県)での現地調査。
旧宿場町だった松崎という地区の神社の石碑などを調べていたところ、よほど熱心な観光客と思われたのか、ご年配の方がその神社の由緒などを説明され、さらに松崎宿の説明に発展。

どうも郷土史会のようなところに所属されている方に思えましたので、後でいろいろ質問させて頂こうと思い、しばらく熱心にお話を伺っておりましたら、是非見て貰いたいと連れて行かれたのが油屋という建物です。

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この油屋は、筑前山家宿から薩摩に至る薩摩街道の宿場町だった松崎宿に建てられた江戸時代の旅籠で、昭和初期まで旅籠として使用されていたそうです。

これまでいつの時代の建築かは不明だったところ、平成24年の調査により、北側の身分の高い賓客を泊めたと思われる「角座敷」が嘉永2年(1849)の建築で、その後「油屋」と呼ばれている母屋が建てられたことが分かったということです。

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▲2階の部分。5〜6畳ほどの客室が5部屋あります。


油屋を訪れた人々には、乃木希典、有栖川熾仁親王、高山彦九郎等がいます。また、西郷隆盛も訪れたという言い伝えが地元に残っているとのこと。

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調査中でしたが、1時間ほどの観光になっていまいました。
posted by 仁四郎 at 09:47 | Comment(0) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月08日

金禄調帳

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廃藩置県の後、それまで各藩が給付していた士族等への家禄を引き続き明治政府が給付していましたが、明治8年9月7日、これまでの“米給”をやめ金銭での給付に改めました。この際に作成されたものが『金禄調帳』です。(それ以前に作成されたものもある)

今回、旧佐賀藩士の調査のため、この金禄調帳を調べてきましたが、佐賀県内のものは全て長崎県が所蔵しており、わざわざ長崎市内まで出向かねばなりません。毎回思うのですが、面倒なことです。

この金禄調帳の有益なことは、当時家禄を給付されていた者であれば、分限帳であまり記載されていない下士や足軽・陪臣などでも確認出来ることです。

「江戸時代は武士だった」という言い伝えはあるが、除籍謄本と分限帳が繋がらないというケースは多いものです。

例えば、幕末の分限帳が存在せず、除籍謄本で分かったご先祖が武士だったか否か分からないとか、分限帳があったとしても身分の低い藩士や陪臣(藩士の家来)などで分限帳には記載がなかった場合など、この金禄調帳が役立つことがあります。
posted by 仁四郎 at 18:55 | Comment(0) | 家系調査の方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月25日

僅か16年間の藩

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福岡県小郡市での調査中、上記画像のような石碑を見付けました。
この松崎城とは、小郡市の松崎地区を中心とした地域に存在した松崎藩一万石の小藩の居城であり、寛文8年(1668)に成立し、僅か16年後の貞享元年(1684)に改易となった幻のような藩です。

藩祖は、有馬伊予守豊範。但馬国出石藩の三代藩主小出吉重の三男で、久留米藩有馬家の二代藩主有馬忠頼の養子となった人物です。

当初、忠頼には男子がなかったため、出石藩小出家に嫁いだ妹の子である豊頼を養子とし、将来の世継として将軍にも拝謁させていました。

ところが、豊頼にとっては不幸なことに、その後に忠頼に男子が生まれたため、世継としての立場を失うこととなりましたが、既に将軍家への御目見えも終えた者を放置出来ないとして、一万石を分地して成立した藩でした。

残念なことに、貞享元年に起こった姉婿の窪田藩主(福島県)土方家のお家騒動に巻き込まれて、松崎藩有馬家も突如として改易。僅か16年の短い歴史を閉じることになり、藩士達も帰農するなど四散しているようです。

この後、旧領は幕府の直轄地となり、代官の服部六左衛門が赴任。せっかく築かれた松崎城は、悉く破却されてしまいました。
現在、その本丸跡には県立三井高校が建てられており、城跡が偲ばれるものは残っておりません。唯一、『松ア城跡』の石碑が僅かにその歴史を物語るものかと思います。

私自身、江戸時代の松崎といえば、薩摩街道の宿場町『松崎宿』という知識しかなく、恥ずかしながら、17世紀後半の短い時期に松崎藩があったということを最近まで知りませんでした。

実は、この地域を対象とした徹底調査で悪戦苦闘を続けているところですが、諸々の条件を考え併せると、この松崎藩士だった可能性も考えられのではないかという思いに至っています。

このため、松崎藩士の名簿のようなものがあるのか? あるとすれば、どこに所蔵されているのか? 等々を諸所調べて廻っているところです。

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2014年06月07日

田口菅原神社

熊本の現地調査の途中に寄った田口菅原神社(甲佐町)の狛犬。
とてもユーモラスな姿でしたので、画像に収めました。

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残念ながら、「阿形」だけしか残っていませんでした。
姿だけみると肥前狛犬のような愛らしさがありますが、大きさが全く違うし、前脚も胴から離れているので、全く別物です。ただ、ユニークさでは引けを取りません。




posted by 仁四郎 at 22:04 | Comment(2) | 各地の狛犬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月06日

墓地調査と天敵

熊本県中部の200年間を辿る「基本調査」の1回目の現地調査。

長年の経験からか、ご先祖が住んでいた場所と周囲の地形から直感で墓地が特定出来るものなのですが、今回の場合はなかなかご依頼人の本家の墓地が見つかりません。

このため、少しずつ調査範囲を広げていったところ、まさか!という森の中で見つけることが出来ました。

途中、道に横たわる天敵のヘビにビクつきながら森の中を進んでいると、突然大きな空間が広がり、20基ほどの墓碑が建つ墓地が現れました。大急ぎで各墓碑の名前に目を走らせると、ご依頼人と同姓の墓碑が2基。素早く、墓誌の内容を確認したところ、除籍謄本に記載されている方の名前がありました。

まさしく、私が探していた墓碑です。10時からスタートして、15時半。いつもそうですが、この瞬間というのは実に嬉しいものです。

さらに嬉しいことに、墓誌の最初の方は、没年と行年から計算すると宝暦2年(1752)の出生。基本調査が目標とする200年間の調査に十分な情報でした。まさかこんなところには墓地は無いだろうと思いつつ、行く手を阻むヘビに石を投げながら森深く入って行った甲斐があったというものです。

ところで、今日だけでヘビが2匹。
爬虫類に追われていた古代の哺乳類の記憶が人一倍強いのか、実に情けないことに、こいつが前に横たわっていると足が出ません。

特に、二匹目のやつは突然木の上から足元に落ちてきて、魂が消し飛びました。

毎年のことですが、これから墓地調査に嫌な季節が始まります。
posted by 仁四郎 at 20:53 | Comment(0) | 家系調査日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月04日

郷土史会の会報の利用

調査の対象地区の郷土史会の会報をみたところ、研究論文の掲載者の中にご依頼人と同じ地域の同姓の方がおられたので、先日お手紙を出していましたが、本日返信を頂きました。

かなり詳しい内容で、調査を大きく前進させることが出来ました。

このような郷土史の研究会は、多くの市町村ごとに存在しています。
当事務所がある岡垣町にも岡垣歴史文化研究会という組織があり、『木綿間』(ゆうま)という会報を出しています。

この郷土史会とそこが発行している会報の存在は、家系調査を行う過程で必ず確認しているところです。

郷土史会は、市町村ごとに存在するわけですので、当然ながら研究の対象地域もその市町村内のことになり、必然的に狭く深い研究を行っておられます。

多くの会報には会員名簿の記載もありますので、その名簿を確認するのですが、今回のようにご依頼人と同姓の会員の方がおられれば、必ずお手紙を出させて頂くか、直接訪問させて頂くなど、何らかの方法で教えを乞うようにしています。

もともと郷土の歴史に興味を持たれている方々ですので、協力的な場合がほとんどですし、地域の歴史や古文書などについて詳しい情報をお持ちです。ご協力を仰がない手はありません。
posted by 仁四郎 at 18:31 | Comment(0) | 家系調査の方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月05日

忘れ雪

大分県久住地方での調査。
標高1000m近い地域のためか、外は氷点下1℃。4月だというのに雪が降っています。
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春先の服装で来たため、寒くて仕方がありません。

ただ、調査自体は大きな成果があり、ご依頼人と同姓の旧大庄屋家を訪問させて頂いたところ、南北朝時代からの系図があり、その系図中に江戸初期頃にご依頼人のご先祖が分家したという記述を見つけました。
早速、撮影させて頂きましたが、当系図により、一気に14世紀後期までの流れを把握することが出来ました。

元々は東海地方の有力豪族で、南北朝時代に九州をほぼ制圧した懐良親王、菊池武光の勢力を駆逐するために幕府から派遣された遠江の今川貞世に従い、後に豊後に土着したという記述がありました。この辺りの歴史は結構興味があって、それなりに研究していますので、帰宅したらノートを読み直さなければと思います。

それ以前についても、おそらく「尊卑分脈」により平安期にまで辿ることは出来るでしょう。

予想外の展開で、寒さも吹き飛んでしまいました!

今夜の宿は、筋湯温泉内のホテル。
多少高くても全室に露天風呂が付いているところを選んだのですが、あまりの寒さにゆっくり入る気にもなれません。
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(部屋に付いている露天風呂。一人で入るには勿体ない広さです。)

posted by 仁四郎 at 22:52 | Comment(0) | 家系調査日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月15日

壬申戸籍の下調帳

明治5年に始まったいわゆる壬申戸籍が閲覧を禁じられていることは、周知のとおりです。

しかし、その前年の明治4年を中心とした時期に、各地で戸籍の下調べが行われており、その時に作成されたものを歴史史料として閲覧可能なものが結構存在します。

下調べといっても、記載されている内容が大きく異なるものでもありませんし、壬申戸籍よりさらに1年前に作成されたものだけに、より貴重な情報源といえます。

ここのところ、このような下調帳に巡り合えることが続いており、非常に助かっています。

ちなみに、ここでは便宜上“下調帳”と書いていますが、名称はそれぞれの地域で異なります。

下の画像は、先日見つけた九州北部のある村のもので、表題には『戸籍取調下帳』と書かれています。

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(クリックすると大きな画面になります。)


by山崎
posted by 仁四郎 at 22:55 | Comment(5) | 家系調査の方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月06日

系図祭り

大分県では、“系図祭り”という行事を行う地域が随所にあります。
年に一回、一族が集まって、系図を中心に親睦を深めるというものです。

今回調査を行ったご依頼人のご先祖様が明治中頃まで住んでいた地域も、系図祭りを行っているところでした。
何度かの交渉の末、氏神とされている神社に奉納している一族の系図を見せて頂くことが出来ました。

神殿から出して頂いた木箱に入った系図は、なんと鎌倉末期の武将を初代とするもので、日本史の教科書にも出てくるような人物でした。

ご依頼頂いた調査は、1800年を目標とする基本調査だったのですが、結果的には徹底調査に匹敵するご報告が出来そうです。

大分県での調査では、このように系図祭りを行っている一族にしばしば巡り合うことがあります。

これまで見せて頂いたことがある系図は、一族の方が毎年順番に持回るというところが多かったのですが、今回は神社の神殿に奉納しているというものでした。

確か、別府大学の方の論文に、大分県の系図祭りでは、系図自体を一族のご神体としているという趣旨のことが書かれていましたが、普段は神殿に納めているところを目の当たりにし、確かにその論文のとおりであることを確認致しました。
posted by 仁四郎 at 22:57 | Comment(0) | 家系調査日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月12日

分限帳調査の注意点

先祖がどこかの藩士だったと伝わっている場合、まずはその藩の分限帳(藩士の名簿、藩によって呼び方が異なる)で調べることになります。

分限帳といっても各時代に作成されたものがありますので、まずは除籍謄本と重なる時期のものを選び、最も古い除籍謄本で確認出来たご先祖と氏名が一致する藩士の存在を確認することで、自分の先祖であるか否かを特定することが出来るわけです。

除籍謄本と時期が重なるということは、必然的に幕末〜明治初年に作成された分限帳ということになります。

ここに一つ大きな問題があります。
それは、明治維新前後に改名しているケースが非常に多いということです。

豊前小倉藩について、私が実際に調べて統計を取ってみたのですが、知行取388人中198人、切米取1061人中521人、計1449人中719人、実に約半数が改名しています。

実際にどのような改名をしているかは、私の作りかけのサイトで確認できますので、興味がある方はご覧になってください。改名している場合は、名前の後ろに(後に喜蔵)といった表現で書き込んでいます。
http://kokurahan.seesaa.net/category/21194323-1.html

明治維新前後で改名してしまっていると、除籍謄本で判明した名前と幕末頃の分限帳に記載されている名前がたとえ同一人物であっても一致せず、ご先祖かどうか分からないということになるわけです。

ここでは、小倉藩だけを例として取り上げましたが、小倉藩だけが突出しているということは考えられず、他の藩にしても似たような数値が出るのではないかと思われます。

この問題をカバーする方法のひとつとして、主に明治5年頃以降に作成された金禄帳の調査がありますが、それはまたいつか書こうと思います。

とにかく、武士だったという言い伝えがある場合、分限帳に同じ名前が見当たらないというだけで、自分の先祖は武士ではなかったのかと安易に結論付けないことです。

by山崎
posted by 仁四郎 at 23:32 | Comment(0) | 家系調査の方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする