2017年03月14日

由利島

愛媛の話が続きます。

弊社のある福岡から愛媛県は、直線距離はたいして離れていないのですが、間に海があるだけに、効率が悪くて困ります。

いろいろな手段を試した結果、現在は車で山口県の柳井港まで行き、そこから防予汽船のフェリーに乗って松山市の三津浜港に上陸するというルートを取っています。事務所出発から三津浜港上陸までなんと約5時間半。時間的には、新幹線で東京に行くより遠いことになります。

前回のブログにも書いたとおり、5年ほど前から愛媛県内の調査が絶えることなく続いていますので、このような移動を定期的に行っています。

ところで、柳井港から三津浜港に向かう途中に右手に見えるのが由利島。
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この由利島、今ではTOKIOの「DASH島」として有名になってしまいましたが、昭和59年に椎名誠率いる“あやしい探検隊”がこの島でキャンプをしていて、その時の様子を『あやしい探検隊不思議島へ行く』に書いています。

その中で、以下のような興味深い記述がありました。
「ヤブの中にはけっこう沢山の家が並んでいて、伸び放題の生け垣をいくつか曲がっていくと・・・」

由利島が無人島になるのは、昭和40年のこと。
椎名誠氏はその19年後に訪れたことになりますが、その時点ではまだ“沢山の家”が並んでいたということです。

そもそもこの由利島が栄えたのは、平安〜鎌倉期のことです。
瀬戸内海の海上交通の要地として、その賑わいは“由利千軒”と呼ばれるほどだったとか。

大由利(大きい方の島)の西側の山の中腹には儀光寺という寺院もあったとかで、その儀光寺は今は松山市古三津一丁目に存在しています。

寺伝によると、「弘安年間(1278~1287)に起こった地震による津波のため島が壊滅状態となり、島民とともに当地(=古三津)に移った。」とあります。

調べたところ、弘安年間にこの地域周辺で起こった地震が特定出来ませんでしたが、とにかく鎌倉時代後期に起こった地震による津波によって、由利千軒と称された由利島の繁栄も終わりを告げたということなのでしょう。

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2016年11月03日

島流しになった者の食費について

調査の過程で、福岡藩の流罪に処せられた者への対応について書かれた古文書があり、その内容が興味深かったので、ここでご紹介したいと思います。

福岡藩の流刑地は、玄界灘に浮かぶ大島や玄海島・姫島・小呂島で、この内では小呂島への流罪が一番重かったようです。

流罪に処せられた囚人は、刑の軽重によって、島での処遇が異なります。
重罪人は、遠島牢居が申付けられて牢屋入りとなり、軽罪者は配所の掘立小屋に収容されます。

ところで、彼らはどうやって食べていたのか?

まず、武士や他国からの旅人、宗旨改帳から除かれた者(つまりどこの町・村の所属でもない者)などは、藩から米が支給されました。これを“公儀飯”(こうぎめし)と呼びます。

これに対し、藩内の一般領民は、出身地の町や村の負担で米が支給されました。
また、商家や豪農などの奉公人は、その主人の個人負担とされており、これらを“嶋扶持”(しまぶち)と呼んでいました。

但し、嶋扶持は、元文2年(1737)に改正され、町や村などの溜銀からの支給となっています。

どちらにせよ、最低限の米は支給されていたわけです。

それでは、どの程度の支給があったかというと、ある程度以上の武士(直礼・半礼以上)は、一日に米一升が支給され、それ以下の下級武士(無礼)や旅人・一般領民などは、一日四合とされていました。

流刑地であっても、身分によって差が大きくありますが、とにかく島流しになったといっても、最低限の食生活は保障されていたということです。
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2016年10月10日

家中間善悪之帳

福岡藩の黒田家の文書の中に、 『家中間善悪之帳』 というものがあります。
如水公自筆と書かれたこの文書は、江戸初期の黒田家臣団の人間関係を記したものです。

例えば、「中悪敷衆」として、次のような記述があります。
一、村田出羽  ニ悪敷衆
  三好助兵衛
  堀平右衛門
  吉田七左衛門

これは、村田出羽と仲が悪い者として、三好助兵衛・堀平右衛門・吉田七左衛門の3名がいるということです。

逆に、「中よき衆」の項では、
一、井上周防   よく候
  堀平右衛門
  黒田内膳
  田代半七
  手塚久左衛門
  高橋伊豆
  岡九郎次郎
  川村少五郎
  高屋九左衛門
  生田万介

井上周防と友好的な関係にある者として、堀平右衛門から生田万介までの9名が挙げられています。

堀平右衛門という人物は、村田出羽とは仲が悪いが、井上周防とは良好な関係だったようです。

このような家臣団相互の人間関係は、官兵衛自身が調べて書き留めていったもので、戦いやその他の仕事をさせる上で、誰と誰を組み合わせると良いのかを考えていたようです。家臣の主(あるじ)というより、教育者という色彩が強かった官兵衛ならではのものかと思います。

思慮分別はあるが少し慎重な栗山善助と、剛毅だが猪突猛進の欠点がある母里太兵衛という対照的な二人を義兄弟とし、お互いの長所を伸ばし短所を矯正させたことは有名な話です。

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2015年03月05日

江戸期の墓碑の建立費用

ある地区の庄屋家文書を調べていたところ、次のような面白い文書を見つけました。

亡父石碑文化十一年四月十七日成就、石工○○村兵助、銘書室生寺隠居
銭弐百弐拾目 石工渡シ
同八匁七分五厘 銘書礼物
同廿五匁  酒取
同     取寄賄入切
 (略)
此外銭九拾目子供石碑五ツ、壱ツ拾八匁宛

文化11年(1814)、亡父の墓碑の完成に伴い、その支出の明細を書いたものです。このように、墓碑建立の費用が書かれた文書は初めてみました。

石工に銭220目。
墓碑の銘を書いてくれた菩提寺のご隠居さんに8匁7分5厘。
墓碑建立の祝い酒と料理に各25匁ずつ。
また、同時に子供の墓碑を5基建て、1基18匁で、計90目。

計378匁7分5厘。

ちなみに、当時の米価は1俵で約50匁というところですので、墓碑建立の費用の大きさが実感されます。(まあ、庄屋家の墓碑ということもありますが)

※金銭の単位を匁と書いたり目と書いたりされていますが、匁=目です。
ただ、10匁単位でない場合はこの目の表現はしません。
たとえば、18匁を18目とは書きません。
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2014年10月04日

旅籠油屋(小郡市松崎)

何度も行っている小郡市(福岡県)での現地調査。
旧宿場町だった松崎という地区の神社の石碑などを調べていたところ、よほど熱心な観光客と思われたのか、ご年配の方がその神社の由緒などを説明され、さらに松崎宿の説明に発展。

どうも郷土史会のようなところに所属されている方に思えましたので、後でいろいろ質問させて頂こうと思い、しばらく熱心にお話を伺っておりましたら、是非見て貰いたいと連れて行かれたのが油屋という建物です。

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この油屋は、筑前山家宿から薩摩に至る薩摩街道の宿場町だった松崎宿に建てられた江戸時代の旅籠で、昭和初期まで旅籠として使用されていたそうです。

これまでいつの時代の建築かは不明だったところ、平成24年の調査により、北側の身分の高い賓客を泊めたと思われる「角座敷」が嘉永2年(1849)の建築で、その後「油屋」と呼ばれている母屋が建てられたことが分かったということです。

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▲2階の部分。5〜6畳ほどの客室が5部屋あります。


油屋を訪れた人々には、乃木希典、有栖川熾仁親王、高山彦九郎等がいます。また、西郷隆盛も訪れたという言い伝えが地元に残っているとのこと。

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調査中でしたが、1時間ほどの観光になっていまいました。
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2013年10月22日

先祖が書いた請求書

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(クリックすると大きくなります)

ある案件で中津藩(大分県)の古文書を調べていましたら、たまたま私の6代前の先祖が書いた古文書が出てきました。

「卯十二月」とだけしか書かれていませんが、前後の記述から安政2年(1855)に書かれたものです。

私の先祖は、中津藩城下の諸町で鍛冶屋をしていたのですが、当時の当主の和助(ここでは“かじや和助”と書かれている)が久右衛門に出した請求書のようです。

なぜこのような古文書が残されているかというと、請求書を出した相手が室屋という中津藩を代表する商家であり、その家に伝わる古文書類が『室屋菊池家文書』として中津市立図書館に寄贈されているからです。

このように、自分のところが大したことはなくても、有力な商家や町名主、農民であれば庄屋などの村役人などの家に自分の先祖に関する文書が残されている可能性があるものです。
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2013年10月02日

清末藩に見る養子率

清末藩とは、長州藩の支藩である長府藩のそのまた支藩(長州藩から見ると孫藩)という特殊な立場にある藩です。
石高は僅かに一万石ですが、この藩は非常に詳しい分限帳と由緒書が残されています。

一般的な分限帳では、家臣名や禄高・役職などが書かれている程度ですが、清末藩では家臣名や禄高の他に年齢が書かれており、さらに父の名前や母の実家名、養子として入った場合には実父母の記載までがあります。

このため、どの藩士が養子であるか、またどの家から入ったのかが分かるのです。

また、一万石の小藩には珍しく、承応2年(1653)の立藩から明治初年まで細かく分限帳が作成されていますので、この200年以上の記録から全藩士の婚姻・養子関係を詳しく分析した方がおられ、詳細な論文を書かれています。

その研究によると、全ての相続例を調べた結果、少なくとも4割前後もが養子による相続であったと述べられています。清末藩の場合は一万石というサンプルサイズが小さいが、藩による差異はあれど、養子相続率は3〜4割に上るであろうとされています。

実に多い数字です。

家系調査を行う過程で、常々養子相続の多さを思っていましたが、考えていた以上の養子率です。

しばしば、「除籍謄本等を見ると養子で入った先祖がいるが、これは実家を調べるべきか養家を調べるべきか悩みます。」と言われる方がおられますが、実は戸籍以前の時代から養子相続は重ね続けられているわけです。
それだけ“家”の存続が絶対視されてきたのですから、ご先祖が苦労して絶やさずに続けてこられた“家”を家系調査では重要視して頂きたいと思うわけです。

調査員:山崎
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2011年12月03日

江戸時代の苗字のこと

「位牌石碑に限り苗字認め候儀、御免相成候」

これは、天保14年(1843)に水戸藩が出した郡庁達(ぐんちょうたっし)です。
庶民に墓石への苗字の彫り込みを法令を持って許可しています。

水戸藩のように法令にせずとも、江戸時代の苗字使用の制限というのは、結構緩いものでした。

農民や町人が苗字を名乗れないというのは、藩宛ての公文書の中で”公称”出来ないだけのことで、墓石に彫ったり、寺社に寄進したり、私信を書いたりする場合など、かなり自由に苗字を使っていたようです。

よく受ける質問に、
「我が家の江戸時代の墓にはちゃんと苗字が彫られている。武士だったか、苗字帯刀が許されていた家だったのでしょうか?」というものがあります。

もちろん、そのような場合もあるでしょうが、上記のような事情であることが多いものです。


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2011年08月09日

七夕神社

小郡市(福岡県)の大崎地区に、全国でも珍しい七夕神社があります。

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正式名は、媛社神社(ひめこそじんじゃ)。
神祭は、媛社神・織女神・菅原神。

この神社の東を宝満川が流れていますが、これを天の川に見立て、その対岸の稲吉地区に牽牛神を祀る老松神社があり、彦星と織姫という七夕伝説をなぞらえて、地元では「七夕神社、七夕さん」と呼ばれているのです。
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天の川になぞえられる「宝満川」


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「天の川大橋」


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対岸にある「老松神社」 女性の神様の七夕神社の優美さと対照的に、素朴な佇まい


この七夕さんは、8世紀前半頃に成立したとされる「肥前国風土記」に記載があるほどの古い神社ですが、当初の神祭には媛社神・織女神は祀られていません。嘉永7年(1854)建立の鳥居に、「棚機(たなばた)神社」と書かれた額があることから、一般庶民にも七夕祭りの風習が生じた江戸中期頃から「七夕様」を祀った神社として信仰されるようになったものと云われています。

ところで、この神社は、ネット上で願い事を書けば、それを短冊に書いてくれ、8月7日に奉納してくれるというサービスをされています。今年は間に合いませんが、来年以降のために、そのサイトをご紹介しておきます→http://www.pishari.com/tanabata/index.html
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2011年01月16日

江藤新平の人相書

旧三瀦県(福岡県筑後地方)の明治期の記録を調べていると、「佐賀県暴動征韓党・憂国党人相書」という文書を見つけました。

佐賀の乱での征韓党及び憂国党の首謀者達の手配書です。
征韓党では、江藤新平・香月経五郎・山田平蔵・徳久幸次郎の4名。憂国党では、島団右衛門・石井竹之助・副島謙助・重松基右衛門・朝倉弾蔵・中島鼎蔵・山中一郎の7名の計11名が挙げられています。(ここに憂国党として挙げられている石井・朝倉・中島・山中は征韓党のはずで、当時の地方の役人の認識とはこのようなものか?)

たとえば江藤新平の場合、次のように書かれています。

佐賀県士族 江藤新平
右人相
一 年齢四十一歳
一 丈高ク肉肥タル方
一 顔面長頬骨高キ方  
一 眉濃ク長キ方
一 眼太ク眥長キ方   
一 額広キ方
一 鼻常体       
一 口並体
一 色浅黒キ方     
一 右頬ニ黒子アリ
一 言舌太ク高キ方   
一 其体常体

下の江藤の写真と比べてみると、この人相書の表現が結構的を得たものであると思われます。
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明治5年に犯罪逃亡者の手配に写真が用いられるようになったばかりですので、まだまだ人相書だけの時代の表現力が保たれているのでしょう。

ちなみに、江藤は高知の甲浦で捕縛されますが、そのきっかけになったのが江藤自身が制定した手配写真制度です。制定者本人が被適用者第1号となったというのは、実に皮肉なものです。

ところで、この人相書の日付は明治7年3月8日。
ここで手配されている島団右衛門(島義勇)は、前日の7日に既に捕縛されています。

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2011年01月10日

水天宮と真木和泉

久留米市での調査の途中に立ち寄った水天宮。
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寿永4年(1185)壇ノ浦合戦で落ち延びてきた建礼門院の女官按擦使局伊勢によって、千歳川(現筑後川)畔の現在地に平氏一門を弔う小祠が建てられたことが水天宮の発祥とされます。祭神は、天之御中主神、安徳天皇、建礼門院、二位の尼の四柱。

伊勢は剃髪して名を千代と改め、源氏の追及を逃れながら里人に加持祈祷などを行いますが、その霊験あらたかであるとして里人の信仰を集めるに至ります。その後、肥後五家荘に隠棲していた平知盛の孫右忠(すけただ)を呼び寄せ後嗣とし、平氏の血脈を伝えて江戸期に至ります。

現在のかたちとしての水天宮は、慶安3年(1650)久留米藩二代藩主有馬忠頼が社地として7畝28歩を与えて社殿を築かせたことが始まりで、当時の神職は右忠から数えて16代孫の重臣(しげおみ)です。これ以後真木姓を称し、その血筋は現社家真木氏に続いています。

幕末の尊王攘夷運動の指導者のひとりであった真木和泉は、文化10年(1813)真木左門旋臣の長男として生まれ、この水天宮の第22代宮司となります。
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真木和泉は、禁門の変の敗北後、天王山にて
「大山の峰の岩根に埋にけり
        わが年月の大和魂」
という辞世の句の残して自刃しますが、彼とともに自刃した者達と一緒に境内外社の真木神社に祀られています。
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最後に・・・
いつものように、狛犬です。
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文化14年(1817)と真木という文字までは見えるのですが、その他の文字が壁に挟まれて見えません。おそらく、真木和泉の父旋臣の時代のものでしょう。

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2010年05月05日

上野(あがの)を歩くB

上野が生んだ童話作曲家「河村光陽」の話しです。
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(幼い光陽の遊び場だった福智下宮神社の境内に建つ生誕碑)


河村光陽といってもピンとこなくても、その代表作「うれしいひなまつり」「仲良し小道」「かもめの水兵さん」「りんごのひとりごと」「赤い帽子白い帽子」「船頭さん」「グッドバイ」などといえばお分かりになる方も多いのでは。

河村光陽、本名河村直則は、明治30年に上野の裕福な地主の家に生まれています。隣に福智下宮神社があり、当時は秋になるとにお神楽が奉納されていました。そのお神楽のメンバー達は、広い屋敷だった河村家に宿泊することになっていたため、幼い頃からその演奏を耳にしており、それが光陽の音楽家としての原点となったとか。
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私自身も光陽の名は知らず、その曲を聴いて認識しました。
この田園風景が広がる上野を歩いていると、子供の頃によく聴いた旋律が蘇ってくるようです。
”陶芸と童謡の町”というのがこの地のキャッチフレーズのようですが、分からないでもありません。

たまには童謡に耳を傾け、童心に返るのも悪いものではありません。

(作動しない場合はご容赦を)

posted by 仁四郎 at 15:58 | Comment(0) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月04日

上野(あがの)を歩くA

上野といえば、上野焼
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この上野焼の祖といえば、文禄の役の際、朝鮮の泗川十時地方から加藤清正に従って日本に来た李朝陶工の「金尊楷」。関ヶ原の戦功により豊前小倉藩主となった細川忠興が1602年、陶土に恵まれた上野の地に尊楷を招いて釜ノ口窯を築窯したことから上野焼が始まります。

尊楷は、地名にちなんで上野喜蔵高国(あがのきぞうたかくに)と名を改め、細川氏が肥後に転封するまでの30余年間、利休七哲の一人であった忠興好みの格調高い茶陶を献上し続けました。

寛永9年(1632年)、細川家の肥後転封に随って、長男忠兵衛・三男藤四郎を連れ肥後国八代郡高田(こうだ)に移り、高田焼を創始しますが、上野焼は二男の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が継承しました。

この後、新領主となった小笠原家の庇護の下、藩窯として幕末まで守り継がれていくのです。

また、徳川家茶道指南役の大茶人小掘遠州が茶器を作るために全国七カ所の窯元を選定し、遠州七窯と言われてきましたが、上野焼もお隣の直方市にある高取焼とともにそのひとつに選ばれています。

明治以降、藩窯であった上野焼は衰退しますが、明治35年に田川郡の補助を受けて熊谷九八郎氏によって再興され、さらに昭和58年には国の伝統的工芸品の指定を受け、現在に至っています。

なんとなく上野焼の宣伝のような記事になってしまいました。
久し振りに訪れると、「上野の里ふれあい交流会館」というのが出来ていました。
ここでは、各窯毎に作品を陳列しています。個々の窯であれば、何か買わないと店から出にくい思いがしていましたので、買わなくても気楽に見ることが出来て助かります(結構、いい値がしますので)。

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↑さすがに上野焼の里。案内版にも上野焼が使われています。
posted by 仁四郎 at 12:03 | Comment(0) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

上野(あがの)を歩く@

上野焼(あがのやき)の里、田川郡福智町上野の奥深く、福智山の麓に古刹「興国寺」があります。
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後方と左右を山に囲まれ、前方には堀があり、さらに石垣が積まれ、さながら小規模な城郭の佇まいを示しています。

この中世の寺院の姿を今に留める興国寺には、足利尊氏にまつわる伝説が残されています。

陸奥守北畠顕家や楠正成・新田義貞らとの戦いに敗れた尊氏は、京を離れ九州に落ち延びますが、その再起の出発点になったのがこの興国寺です。

境内には「墨染の桜」と呼ばれる桜があり、この地で再起を図った尊氏がつぼみのついた桜の枝を切り、逆さに地中に挿して今後の戦運を占ったと伝えられています。

この時に詠んだ歌がこれ。
今宵一夜に咲かば咲け 咲かずば咲くな 世も墨染の桜かな

桜は一夜にして咲き、勝利を確信した尊氏は、九州の天皇方の有力武将菊池氏や阿蘇氏などを破って勢力を回復。西国の軍勢を引き連れて京に攻め上り、ついに征夷大将軍となり室町幕府を成立させるのです。

古文書から窺い知れる尊氏の言動をみて、ある精神科医が”躁鬱病”ではなかったのかと診断されています。

ある時は、英雄のごとく颯爽としている尊氏だが、窮地に追い込まれた時などふさぎ込み、自ら命を断とうとしかねない部分もあった人物なので、この山深い寺の桜の一枝に自らの運命を占った尊氏の姿があってもよいのではないかと思います。

室町幕府成立後、尊氏と弟の直義は、国家安泰の祈願と戦死者供養のため、全国66カ国に安国寺を設置しますが、この興国寺を第一番目の安国寺に指定し、所領も寄進しました。それを示すのが興国寺文書の足利直義寄進状。

この寺の重要さもあるのでしょうが、自らの再出発の地を忘れていなかったのかも知れません。

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堂々たる本堂。画像では見えないかと思いますが、瓦には江戸時代の領主である小笠原家の家紋「三階菱」があります。
posted by 仁四郎 at 23:49 | Comment(0) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

丁丑感𦾔之碑

熊本市の熊大キャンパス裏手の小峰墓地内に丁丑感𦾔之碑(ていちゅうかんきゅうのひ)があります。(※感と之の間の文字は「旧」の旧字体です)

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丁丑“ひのとうし”とは、年の干支のことで、西南の役が起こった明治10年が丁丑であることから、この碑名が付けられています。

この丁丑感𦾔之碑は、西南の役の同志の戦死者を悼み、明治18年に佐々友房ら熊本隊の生存者達が手取本町の鎮西館近くに建設したものです。その後、大正12年の市電敷設に伴い、現在の小峰墓地に移設されました。

その際、「自誓書」(向かって右)と「挙兵終始」(向かって左)が加えられ、これら3基の碑に全熊本隊士の名前が刻まれています。さらに、後方には「丁丑殉難之碑」が置かれ、この戦いで戦死された方や戦後に処刑された方の名前が刻まれています。
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今回の私の訪問は、この中からある方の名前を見つけることが目的だったのですが、膨大な数の中から一人の名前を探すために近くで見上げ続けると、首が痛くなるほどの高さであり、真上にある太陽の光の眩しさも手伝ってか、目まいでふらふらしてきました。
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とても読みやすい文字も多いのですが、風化して読み難い個所も少なくありません。結構大変ですが、ご先祖に関係者がおられる方などは、一度訪問されてはいかがでしょう。
posted by 仁四郎 at 10:53 | Comment(0) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

宮本武蔵顕彰碑(小倉碑文)

北九州市の小倉北区と門司区の境界にある標高70mほどの手向山(たむけやま)の頂上に宮本武蔵の顕彰碑が建っています。

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国道3号線を門司から小倉方面に向かう途中に手向山はあります(前方のトンネルのある山)

武蔵没9年後の承応3年(1654)に武蔵の養子の宮本伊織貞次が父武蔵を弔い、その事績を顕彰するために建立したもので、高さ4.5mもの巨大な自然石で出来ています。
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この顕彰碑は小倉碑文と呼ばれ、上部に武蔵が残した「天仰實相圓満兵法逝去不絶」(天を仰げば実相円満の兵法、逝去して絶えず)という十二文字が大きく彫られ、その下に漢文で千百余文字の顕彰文が刻まれています。

伊織は小倉藩小笠原家の筆頭家老であり、藩主からこの山を拝領していたことから、ここに武蔵のためのモニュメントを建立し、同時に宮本家の墓地としたものです。

武蔵の伝記に記された吉岡一門との決闘や巌流島の決闘などの主な伝承は、この小倉碑文を源としているという武蔵を知る第一次史料です。このような貴重な史料が博物館などではなく、このように誰でも無料で見れるわけですので、一度は訪れてみたいものです。

ちなみに、この山頂から武蔵と佐々木小次郎の決闘の場である巌流島が望めます。
(残念ながらこの日は曇りで視界が悪く見えませんでしたが)
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また、山頂広場には桜の木がたくさん植えられていますので、桜の季節は綺麗でしょうね。
posted by 仁四郎 at 20:29 | Comment(1) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

佐賀の乱、中立派の苦悩

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上の史料は、佐賀藩鍋島氏の親類家である白石鍋島氏家臣の子孫の方宅で撮影させて頂いたものです。(画像をクリックすると大きくなります)

内容は、明治7年の佐賀の乱において、前山清一郎を中心とする中立党に属した白石鍋島家臣団の乱前後の様子を記したもので、全部で40項ほどの文書です。

佐賀の乱といえば、江藤新平の征韓党・島義勇の憂国党が協同して起こした明治政府に対する最初の士族による反乱であり、旧佐賀士族の大半がどちらかの党に組した大規模なものでした。

このように、佐賀中が反政府として沸騰している中で、征韓党にも憂国党にも属せず中立を保つというのは、非常に微妙で難しい立場に成らざるを得ません。中立というと聞こえはよいが、実質は政府側に付くということであり、同郷人からすると裏切り者以外のなにものでもないわけです。

この史料では、白石家臣団が征韓党や憂国党の入説も受けつつも、最終的に中立党に加担することを決定。当初112名(実質86名)のメンバーが紆余曲折を経て、最後には20名となり、その内実戦部隊に参加するのは病・若者を除き僅かに8名だけとなる過程が書かれています。

ちなみに、この8名とは、
深堀彩蔵・高木恒作・中島多助・廣本良雄・原憲治・石丸力太郎・森山孫八・船越与一
というメンバー。彼らが、前山清一郎を中心とした中立党の戦闘部隊のメンバーとして、官軍の先導となって同郷人を討つ側に回るというわけです。

さらに、この史料の後半部分は、政府に対する謝罪書関連が続いています。
自分達は反政府軍に属せず、中立党に属していたという趣旨のものであり、罪を免ぜられるよう活動する様が読み取れます。

乱の終息後も反乱側と彼らの確執は続き、特に最後まで中立党に組した20名の立場は、非常に苦しかったのではないかと思われます。そのためか、彼らの中には住み慣れた土地を離れた者があり、その多くが旧主白石鍋島氏の本貫地である伊万里方面に転居しているようです。

住み慣れた土地を離れなければならないほど、同郷人から裏切り者とみなされた彼らの苦悩は続いたということなのでしょうか。


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2009年03月23日

岡城(福岡県遠賀郡岡垣町)

岡城入口.jpg

岡城といっても、荒城の月で有名な大分県竹田市の岡城ではありません。
私が住む岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめるもので、JR海老津駅の北約2kmほどの通称城山と呼ばれる標高40mほどの小高い丘が城跡です。
岡垣町に住むようになって5年目になりますが、すぐ近くに住んでいるのにようやく今頃になって登ってみました。

登山道.jpg

山というより丘というべき高さですが、本丸がある頂上まではちょっとした登山(?)であり、運動不足の体には結構厳しい山道です。

三の丸.jpg

5分程度歩くと、三の丸と書かれた標識が見えてきますが、どう見ても普通の山道にしか思えません。

二の丸.jpg

さらに登っていくと、二の丸の標識があります。
東西14m、南北22mほどの平地ですが、写真のようにこの二の丸外縁をぐるっと囲むように、数多くの石仏が並んでおります。

本丸.jpg

さらに3mほど登ったところが本丸跡です。
東西15m、南北30mほどの平地に古い祠があり、良く見ると「寛政・・・」という文字が読めますので、祠自体は18世紀末に作成されたものなのでしょう。

なお、この岡城についての由来の詳細については諸説あります。
ただ、登山道入り口に案内板が設置されていましたので、これ↓をご覧ください。(クリック)
岡城案内板.jpg


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posted by 仁四郎 at 11:48 | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月21日

三瀬峠

家系調査のため、佐賀市内に行ってきました。
私の住む福岡から佐賀に行く場合、普段は高速道路を使うのですが、今回初めて三瀬峠を越えて佐賀入りしてみました。

三瀬峠.JPG
三瀬峠から佐賀方向を望む

この三瀬峠は、福岡県と佐賀県の県境である背振山山系の鞍部にあたる峠であり、標高は585m。道は嶮岨ではあるけども、福岡から佐賀に入る最短コースなのです。

ちょうど秋晴れの日曜日だったので、多くのライダー達を見かけました。曲がりくねった山道がバイク乗りには魅力的なのでしょうか。
また、周辺には「どんぐり村」などもあり、子供連れで賑わっていました。

この穏やかな風景の三瀬峠も、明治7年の佐賀の乱では、政府軍と佐賀軍との間で激戦が繰り広げられた場所でもあります。

大久保利通が総指揮をする福岡本営から佐賀城下に入る進路は、田代・本庄・綾部・椎原・久保山・三瀬の6つの口があるとされますが、このとき政府軍が選んだ進路が田代とこの三瀬です。

政府軍主力は、古来からの福岡・佐賀間の本道でもあり、現在の鉄道が走っているコースでもある田代口ですが、別動隊がここ三瀬峠から進撃してきたのです。

三瀬峠を守る佐賀軍の主将朝倉弾蔵の指揮と、峠の高所に陣を占めていた地の利の良さで、善戦を続けていました。

約130年前、砲声が鳴り響いたであろうこの峠も、今は遊びに来た子ども達の声やバイクの音が響く平和な山村となっています。


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2008年10月18日

明治の薩摩人に思う

鶴丸城.JPG

今回訪れた鹿児島県立図書館は、旧鹿児島城の二の丸跡の一画に位置しています。
鹿児島城(鶴丸城)といっても、熊本城のような勇壮な天守閣その他の高層建築を有するものではなく、城山の南麓に居館程度の建築物を備えた程度のものです。

公称77万石とされる日本第二の大藩に似つかわしくない簡素な構造ですが、これは、徳川氏に対する恭順の意味があったともされていますが、一つには島津氏が地生えの大名だったことにもよるのでしょう。大建築によって、地元の勢力・領民などに自らの権威を誇示する必要がなかったということです。

また、古代隼人の血を継ぐ薩摩の風土自体が常に進襲のみを考え、籠城戦のような守りの思想を持たなかったということもあるのかも知れません。

後背地の城山の名前は、中世に地元の豪族上山氏が山城を築いていたことに由来するのですが、西南戦争最後の戦地として有名な場所です。

明治10年2月15日、精鋭1万3千人で鹿児島を発し、延べ3万人以上の兵力を注ぎ込んだ薩摩軍も、この城山の時点では人夫を含めて僅かに372人、その内銃器を所持した兵150人余りという劣弱な勢力となっています。

一方、この城山を囲む政府軍の数、約5万。
蟻が這い出る隙間もないほど、びっしりと山全体を包囲し、錦江湾からの艦砲射撃や、城山の裏一帯に砲列を敷き、併せて日に数百発の砲弾が送り込まれました。

その砲撃を避けるために、岩崎谷一帯に洞窟を掘ったのですが、現在も残されているのがこれ↓

西郷洞窟.JPG

西郷洞窟拡大.JPG


これは西郷隆盛の洞窟で、士卒達はそれを第一洞と呼んでいました。この洞窟の道路を隔てた崖に第二洞として辺見十郎太の洞窟が掘られ、以下、第三洞桂久武・新納軍八、第四洞国分十助、第五洞桐野利秋、第六洞別府晋介、第七洞村田新八、第八洞伊東直二ら数人が雑居、後に病院にいた野村忍介が一洞を掘り、最終的に九つの洞窟が掘られました。

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に始まった官軍の総攻撃により、西郷隆盛他多くの幹部が闘死しますが、圧倒的な兵力差の下でも降伏の道を選ばず、闘死というカタチを取った薩摩人の勇猛さに、ただただ感服しております。

その激戦も今は昔。今では、錦江湾および桜島を望む絶好のポジションにあり、公園として整備され、夜景ポイントとして人気のある場所となっています。
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