2008年11月07日

木屋瀬宿までの街道沿い(後編)

長崎街道を歩くという記事も随分長い間さぼっておりましたが、久し振りに続きを書きます。

銀杏茶屋を過ぎてしばらく行くと、200号線から右の旧道に入ります。
いよいよ木屋瀬という途中、私の生まれ育った「真名子(まなご)」という地域を通過します。

この真名子は、旧黒田藩営真名子(まなご)鉄山があったところです。

古来より砂鉄を産するところを真金の砂から「真砂」(まさご)と呼んだらしいが、「まなご」と読む例もあったようで、我が故郷の真名子もこのような意味から付いたらしいのです。

20数年住んでいましたが、実はここに鉄山があったなんて、恥ずかしながら最近知ったばかりで、悲しいかな、どのあたりが鉄山の跡なのかがさっぱり分かりません。
どなたかお分かりの方がおられれば、ぜひ教えて頂きたいものです。

さて、この真名子を通り過ぎ、真名子橋を渡るといよいよ木屋瀬宿に入ります。
木屋瀬宿の入口に立つのがこれ↓

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木屋瀬宿東構口跡の案内表示板です。
ここから約900m離れた西構口まで、宿場町が続いていたわけです。
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2006年03月31日

木屋瀬宿までの街道沿い(前編)

黒崎宿を後にして木屋瀬宿に向かう途中、「銀杏茶屋」までは、ほぼ国道200号線が長崎街道です。

銀杏茶屋のちょっと手前の小嶺という所に、一里塚が建っています。

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200号線沿いにあるのですが、全く目立たないので、油断すると見落としてしまうところでした。

その一里塚からさらに約1km程度進んで、小嶺台2丁目からわき道を300mほどに入ると、銀杏茶屋(北九州市指定文化財)に着きます。

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この銀杏茶屋は、黒崎宿と木屋瀬宿の間の「立場茶屋」として、参勤交代の諸大名をはじめ、長崎奉行、巡見使などが休憩したところです。
主屋は天保7年(1836)10月2日の火災による焼失後に建てられたもので、庭の銀杏の大木には、今もこの火災の焼け跡が残っています。

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銀杏屋は長崎街道に残る「上段の間」を持つ唯一の立場茶屋の遺構として、近世交通史を考える上で重要であるとともに、建築年次が明確で質の高い主屋は近世の町屋建築を考える上で貴重なものであります。

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ここはシニアのボランティアが守っておられ、親切に案内してくれるらしいのですが、写真の通り閉館していました。残念です。

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2006年03月25日

木屋瀬宿へ!

岡田神社を出てさらに西に行くと、黒崎宿の西の出入り口である西構口跡の碑があります。(熊手2丁目3−26) ここで、黒崎宿とさよならというわけですね。

それを通り過ぎたところにあるのが「乱橋」です。その周辺が遊郭だったということで乱橋という名前が付いたと聞きました。長崎の遊郭の入り口にある橋が「思案橋」ですから、行こうか行くまいか、心が乱れたり思案をしたりしたということでしょうか・・?

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この乱橋一帯は、かつて蛍の名所だったようで、「黒崎十二景」の中に
”ほたる飛 松のはずれや みだれ橋”
と詠まれています。

乱橋を渡り緩やかな坂道を登って行くと、左手に曲里の松並木が見えてきます。
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この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残です。戦前まではここから木屋瀬宿まで街道には多くの松を残していたそうです。

私は、これから向かう木屋瀬宿の少し手前にある真名子という地域の出身なのですが、子供の頃には木屋瀬に向かう街道沿いに大きな松が何本も立っていたのを憶えています。

その松をみて父が「これは江戸時代の松の木で、この下を大名行列が通っていたんだ」というような事を教えてくれ、頭の中にその松の木の下を通る大名行列を思い描いたものです。

さて、ここから約3里先の木屋瀬宿に向かいます!
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2006年03月24日

岡田神社

春日神社の次に足を延ばしたしたのが、「岡田神社」です。

この岡田神社は、「古事記」によると神武天皇の東征の時、筑紫の岡田の宮に詣で八所の神を祀ったとあります。

このため、かつては「八所神社」と呼ばれていましたが、宝永2年(1705)に岡田神社と改称されました。
また、以前は山寺町というところにあったものが、慶長10年(1605)頃、現在地に移ったといわれています。

幕末、三条実美が黒崎宿で密かに岡田神社に参拝し、その時の心境を詠んだ歌の碑が建っていました。

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雨に濡れて、文字が見えにくくなっています。

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「玉ちはふ 神し照らせば 世の中の 
      人のまごころ かくれやはする」


都から長州に流され、また大宰府に落ちていく三条卿の心情が伝わってくるようです。

さらに奥に進むと、目当ての狛犬がありました。

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文政11年(1828)の文字が見えました。


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ユニークな表情をしています。経年数に比して保存状態が良いです。

この写真を撮り終えて戻ろうとしたところ、さらに奥の一角にちらりと狛犬らしいものを見つけまして近寄ってみると、一体だけの「阿」形がありました。

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珍しく逆立ちした狛犬です。
文字が磨耗してい、いつの時代のものか判明出来ませんでしたが、上の狛犬よりも古い時代のようです。

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別の角度からも撮ってみました。後足が破損しています。「吽」形がどこに行ってしまったのか・・・この一体だけが最深部にポツンとあります。

岡田神社を出て、さらに西に向かいます。
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2006年03月23日

春日神社

春日神社の狛犬です。もう暗くなっていましたので、かなり見にくい写真になってしまいました。

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文久2年(1862)「遠賀鞍手郡代役所奉献狛犬」と書かれて、屋根まで付けてもらっています。浅学のため、なぜそこまで大事にされているのかについて、なにも分かりません。残念です。

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この辺の地域の狛犬は、文化文政のころまでは、もっとシャープで頭も小さ目のものが多いのですが、文久あたりになると明治期に繋がる造形になってきます。吽形の角も見えません。

春日神社のすぐそばが藤田銀天街ですが、その入り口に黒崎宿の大きな絵図があります。

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この図は、黒崎郷土史会の原図に基づいて、藤田商店街の方々が描いたものだということです。黒崎港から見た当時の黒崎宿の様子が分かる貴重なものです。

さらに足を伸ばして、「岡田神社」に向かいます。


posted by 仁四郎 at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 長崎街道を歩く | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月22日

桜屋〜春日神社

黒崎城を降りて、再び黒崎宿に戻ります。
田町から藤田に向けて歩くと、かつて黒崎宿の旅籠屋の1つである「桜屋」があった藤田2丁目1番に出ます。

この「桜屋」は、文化5年(1808)頃の創業と伝えられ、薩摩藩、熊本藩の御用達や佐賀藩の定宿をつとめ、幕末には平戸藩の御用達にもなります。

桜屋と呼ぶ前は「薩摩屋」と称していました。江戸時代最後の桜屋の当主は勤皇の志が厚かったため、西郷隆盛や坂本竜馬などの志士たちをはじめ、三条実美ら五卿が宿泊したところとしても有名です。

さらに奥に歩くと、「春日神社」があります。
この神社は、中世、遠賀地方を中心に勢力のあった花尾城主麻生氏の祖神でしたが、慶長9年(1604)黒田長政が黒崎城を築いた時にこの地に移されました。

ここには、「黒田二十四騎画像」があることで有名です。
この絵は、福岡藩初代藩主黒田長政の重臣であった24人の肖像を御用絵師の尾形洞霄(おがたどうしょう)に描かせ、春日神社に奉納したものです。

ちなみに、黒田二十四騎とは・・・
黒田兵庫助利高  黒田修理亮利則   黒田図書助直之
井上周防之房   毛利但馬友信   栗山備後利安
小河伝右衛門信章 後藤又兵衛基次  黒田美作一成
久野四兵衛重勝  桐山丹波丹斎   野村太郎兵衛祐勝
野口佐助一成   吉田壱岐長利   村田出羽吉次
菅和泉正利     益田与介宗清   衣笠因幡景延
竹森石見次貞   堀平右衛門正儔  原伊予種良
三宅若狭家義   林掃部直利    毛屋武蔵武久

以上の24人です。黒田長政を入れて黒田二十五騎という場合もあります。




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2006年03月21日

黒崎城

黒崎井筒屋(昔は黒崎そごうでした)の北側に城山(道伯山)と呼ばれる小高い山があります。

ここは、福岡藩六支城の一つ、黒崎城のあった山です。

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「城跡に立てられている説明板」
この城は、慶長5年(1600)の関が原の戦いの功で、筑前52万石に入部した黒田長政の武将「井上周防之房」によって築城されました。

しかし、元和元年(1615)の「一国一城令」により、わずか10数年で破却された”幻の城”です。

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「本丸跡に建てられた黒崎城址の石碑」


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頂上はこのように自然公園になっています。


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ところどころに残る石垣の跡


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本丸跡から見下ろす。洞海湾やそれを取り巻く工場群が見えます。この日は、ちょっと曇っていたので、写真映りがよくないですね。


また当時は、この山の麓まで洞海湾が迫っており、黒崎港を抑える拠点でもありました。そのため、山の麓は舟町という町名で、近くには下の写真のような「常夜灯」(灯台)が一基残されています。
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その横には、「常夜灯」の説明板が立っています。

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かつての黒崎港の名残ですね。この常夜灯の下部には「嘉永酉」と彫られています。酉というのは、嘉永2年(1849)ですよね。
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2006年03月20日

黒崎宿

八幡図書館を後にして、八幡西区に入ります。

小倉を発って、最初の宿場町が「黒崎宿」です。この黒崎宿は、筑前21宿の中でも最大規模の宿場町でした。

小倉方面から入った場合、「海蔵庵」(八幡西区田町2丁目)というお寺に構口(関所のこと)がありました。

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「黒崎宿東構口跡の石碑」


ここは、黒崎宿の東の関所であり、4人の役人が昼夜交代で詰めて、旅人の監視をしていました。
同時に、西の関所は熊手にあり、3人の役人が詰めていたといわれます。

さらに、このお寺を先に進むと、JRの踏切が出てきます。その周辺が、かつての「お茶屋」があったところです。お茶屋とは本陣のことで、福岡藩主黒田氏や長崎奉行・日田代官などの宿所となっていました。

また、近くに町茶屋と呼ばれる脇本陣がありました。ここは、黒田氏以外の藩主やその他の高官らの宿所です。

ここからさらに、藤田から熊手に進むところですが、この黒崎宿の北側にある小高い山に登ってみました。福岡藩六支城の一つ、「黒崎城」があったところです。

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2006年03月19日

豊山八幡神社

小倉城を後にして、いよいよ長崎街道を南下して行きます。

小倉北区金田一丁目の「清水口門跡」を通過し、八幡東区に入ります。
昭和天皇の即位を記念して付けられた「昭和町」、江戸期に小笠原藩の番所があった「荒生田町」を通り、「春の町」に着きました。

ここには、「豊山八幡神社」があります。
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この神社の由緒書には、「神宮皇后、この地に来た時弓矢を山中に納め、天下が豊かになることを祈り、この山を豊山と名付けた。」とあります。光孝天皇の時代(884〜887年)に創建されたとされています。

早速、狛犬を撮りました。

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ちょっと逆光になってしまいました。ちょうど工事中で、足場に困りました。

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オーソドックスな形をしていますが、前足で玉を転がしています。


豊山神社を後にして、「西本町」「尾倉町」と通って、八幡図書館に着きました。ここには、江戸期の「国境石」があります。今まで歩いた「豊前国」とこれから歩く「筑前国」の境ということになるのですが、実際の国境は、もっと手前(小倉側)でした。

国境でもないこの図書館にある訳は、筑前のものは旧八幡市役所にあったもの、豊前のものは本当に国境(八幡東区三条)にあったのをここに移転したものでありました。

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石材は、砂岩石(折尾石)が使われています。そのためもあってか、両方とも上部が欠けています

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この国境石の説明文を書いた看板です。


さらに八幡西区に入って行きます。
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2006年03月18日

小倉城と八坂神社

長崎街道の起点(終点)から西に向かうと小倉城が見えます。
今では市庁舎や商業複合施設リバーウオーク北九州の高いビルに囲まれて、こじんまり見えてしまう小倉城ですが、慶長年間に細川忠興が7年の歳月を掛けて築城されたものです。

しかし、寛永9年にその子細川忠利が熊本に転封となり、替わって播磨明石城主小笠原忠真が15万石で入封しました。 小笠原氏は幕末まで代々西国大名の監視役を務めましたが、慶応2年の第二次長州征伐では、小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春へ移しました。幕末の悲劇の城ともいえます。

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この小倉城の五層天守は、南蛮造りと言われる様式の天守で有名です。


城内には、小倉祇園祭りで有名な「八坂神社」があります。
この神社は、小倉藩主細川忠興が元和3年(1617)に小倉藩の総鎮守として、当初鋳物師町に造られていました。

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この旅の最大の目的である狛犬の紹介です。
境内には、2対の狛犬が置かれています。

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昭和4年 侯爵小笠原〜と彫られています。小倉のお殿様が奉納されたのですね。

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さらに、高さ50cmくらいのこじんまりした可愛らしい狛犬が脇の方にありました。
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かなり古い感じなのですが、字が磨耗して読めません。

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小さくて花の中に埋もれそうな感じです。

この小さな狛犬の後ろにあった灯篭です。元禄12年(1699)と彫られていました。
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この3年後に赤穂浪士の討ち入りがありました。







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2006年03月17日

常盤橋から出発!

東海道の起点が日本橋なら、長崎街道の起点はここ「常盤橋」(北九州市小倉北区)です。
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「常盤橋」は、小倉城の東側の天然の堀になっていた紫川に架かる橋です。そして、長崎街道だけではなく、小倉の五街道(長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還)全ての起点でもあり終点でもありました。

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紫川の西が小倉城内であり、東が城下町となっています。この紫川の東西に架かる橋は当時2つしかなく、城内と城下町の中心地だった室町・京町筋を繋いでいた常盤橋の重要性が分かります。

また、常盤橋の西岸北側には港があり、ここから下関に渡っていました。

小倉から長崎まで25宿、57里、228キロの道を参勤交代の大名や長崎奉行、 オランダ商館カピタン一行の行列が、この橋を越えて小倉の城下町で休憩又は宿泊しました。

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平成7年に北九州市の紫川マイタウン・マイリバー整備事業のひとつとして、江戸時代と同じ「木の橋」に生まれ変わりました。橋げたには、コンクリートと同じ強さを持つ木(ボンゴシ材:西アフリカ産)が使われ、欄干にはチーク材が使用されています。

さて!ここから長崎に向けて出発です!
posted by 仁四郎 at 18:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 長崎街道を歩く | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする