2016年11月03日

島流しになった者の食費について

調査の過程で、福岡藩の流罪に処せられた者への対応について書かれた古文書があり、その内容が興味深かったので、ここでご紹介したいと思います。

福岡藩の流刑地は、玄界灘に浮かぶ大島や玄海島・姫島・小呂島で、この内では小呂島への流罪が一番重かったようです。

流罪に処せられた囚人は、刑の軽重によって、島での処遇が異なります。
重罪人は、遠島牢居が申付けられて牢屋入りとなり、軽罪者は配所の掘立小屋に収容されます。

ところで、彼らはどうやって食べていたのか?

まず、武士や他国からの旅人、宗旨改帳から除かれた者(つまりどこの町・村の所属でもない者)などは、藩から米が支給されました。これを“公儀飯”(こうぎめし)と呼びます。

これに対し、藩内の一般領民は、出身地の町や村の負担で米が支給されました。
また、商家や豪農などの奉公人は、その主人の個人負担とされており、これらを“嶋扶持”(しまぶち)と呼んでいました。

但し、嶋扶持は、元文2年(1737)に改正され、町や村などの溜銀からの支給となっています。

どちらにせよ、最低限の米は支給されていたわけです。

それでは、どの程度の支給があったかというと、ある程度以上の武士(直礼・半礼以上)は、一日に米一升が支給され、それ以下の下級武士(無礼)や旅人・一般領民などは、一日四合とされていました。

流刑地であっても、身分によって差が大きくありますが、とにかく島流しになったといっても、最低限の食生活は保障されていたということです。
posted by 仁四郎 at 23:08 | Comment(1) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ご無沙汰しています。
記事とは関係ありませんが、
古文書を撮影させて頂いた方が
ようやく、見つけた墓にお参りに行きたいと
連絡がありました。
家系図を見ていると伝光寺とあり
古くは鹿島に人形墓石として
一族の墓所があるようです。
Posted by いわなが at 2016年11月04日 08:30
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