山陰のある山間部の現地調査に来ています。
ただもう、一面の雪で、墓地も埋まって墓石の調査すら出来ず、身動きも取れません。
この忙しい時に、時間だけが無駄に経過しています。
こんな時に来るんじゃなかった。反省、反省・・・。
2012年01月24日
2012年01月16日
小倉城下町屋之図
昨年11月5日の記事で、小倉城下町の町人の絵図で「小倉城下町屋之図」(小笠原文庫所蔵)というものがあると書いていましたが、ようやくその絵図全体の画像が入手出来ました。
城下の藩士の絵図「小倉藩士屋敷絵図」では、藩士だけの記述しかなく、町人が書かれていない。
逆に、今回入手した「小倉城下町屋之図」では、町人だけの記述しかなく、藩士が書かれていません。
いっそのこと、自分で藩士・町人とも書き込んだ絵図を作ってみようかと思っています。それが出来れば、安政期の小倉城下の住人が一覧して把握することが出来ます。かなりの作業になりそうなので、今はそれどころではありませんが、いつか完成させたいと思っています。
ところで、本日予定通り、RCCラジオでお話しをしましたが、情けないことに結構緊張してしまいました。どうもテレビの方がラジオより気楽に話せるようです。
城下の藩士の絵図「小倉藩士屋敷絵図」では、藩士だけの記述しかなく、町人が書かれていない。
逆に、今回入手した「小倉城下町屋之図」では、町人だけの記述しかなく、藩士が書かれていません。
いっそのこと、自分で藩士・町人とも書き込んだ絵図を作ってみようかと思っています。それが出来れば、安政期の小倉城下の住人が一覧して把握することが出来ます。かなりの作業になりそうなので、今はそれどころではありませんが、いつか完成させたいと思っています。
ところで、本日予定通り、RCCラジオでお話しをしましたが、情けないことに結構緊張してしまいました。どうもテレビの方がラジオより気楽に話せるようです。
2012年01月15日
RCCラジオ
中国放送のRCCラジオの明日の番組の中で、家系図についてのお話しをすることとなりました。私の出番は、13:05からの10〜15分程度ということらしいです。
以前、不登校生の学校の代表をしていた時代には、テレビやラジオ、各種講演会などでお喋りをする機会がとても多かったのですが、最近はそのようなこともないため、柄にもなく少し緊張をしております。
それにしても、最近はマスコミの方から連絡を受けることが多くなりました。
安易にすぐ「〜ブーム」と囃す今の風潮は好きではありませんが、やはり家系図ブームなのかも知れませんね。ブームというのは、怖いものです。気を付けなければ。
以前、不登校生の学校の代表をしていた時代には、テレビやラジオ、各種講演会などでお喋りをする機会がとても多かったのですが、最近はそのようなこともないため、柄にもなく少し緊張をしております。
それにしても、最近はマスコミの方から連絡を受けることが多くなりました。
安易にすぐ「〜ブーム」と囃す今の風潮は好きではありませんが、やはり家系図ブームなのかも知れませんね。ブームというのは、怖いものです。気を付けなければ。
2012年01月14日
無題
ちょっと油断していたら、ブログの更新が1カ月以上も空いてしまいました。
このブログも6年目に入りましたが、あまり面白みのないことばかり書いている割には見て頂いている方も増えてきたようです。ただ、ここしばらくは更新する余裕がなく、当面は散発の投稿が続きそうです。
ところで、これまで単発的に調査のお手伝いを依頼することは何度もあったのですが、今回は正式なスタッフとして調査員を探しているところです。
いちから研修をしている暇がありませので、即戦力になる人がいればと思っているのですが、そもそもこのような仕事自体がマイナーですので、経験者がいるはずもなく、なかなか難しいものです。
調査員に最低必要な条件というのは、
・歴史が好きでそれなりの素養がある(当たり前か)
・社交的で、コミュニケーション能力がある(現地での各方面での聞き取り調査で、相手から如何に重要な情報を聞き出せるかが重要だから)
・フットワークが軽い(ある意味、青森から鹿児島までが勤務先)
・粘り強い(調査活動の9割以上が無駄骨になる)
といったところかなと思いますが、当然うちの通勤圏内に住んでいる人でないといけませんし、かといってわざわざ遠方から引っ越して来るとなると気が重い・・・と、いろいろ言っていたらきりがありませんね。
これまでに何人かの方とお会いしましたが、なかなか一緒にやってみたいとう方とは出会えていません。ただ、急いで決めてしまっても碌なことはありませんので、気長に構えていなければと思っているところです。
このブログも6年目に入りましたが、あまり面白みのないことばかり書いている割には見て頂いている方も増えてきたようです。ただ、ここしばらくは更新する余裕がなく、当面は散発の投稿が続きそうです。
ところで、これまで単発的に調査のお手伝いを依頼することは何度もあったのですが、今回は正式なスタッフとして調査員を探しているところです。
いちから研修をしている暇がありませので、即戦力になる人がいればと思っているのですが、そもそもこのような仕事自体がマイナーですので、経験者がいるはずもなく、なかなか難しいものです。
調査員に最低必要な条件というのは、
・歴史が好きでそれなりの素養がある(当たり前か)
・社交的で、コミュニケーション能力がある(現地での各方面での聞き取り調査で、相手から如何に重要な情報を聞き出せるかが重要だから)
・フットワークが軽い(ある意味、青森から鹿児島までが勤務先)
・粘り強い(調査活動の9割以上が無駄骨になる)
といったところかなと思いますが、当然うちの通勤圏内に住んでいる人でないといけませんし、かといってわざわざ遠方から引っ越して来るとなると気が重い・・・と、いろいろ言っていたらきりがありませんね。
これまでに何人かの方とお会いしましたが、なかなか一緒にやってみたいとう方とは出会えていません。ただ、急いで決めてしまっても碌なことはありませんので、気長に構えていなければと思っているところです。
2011年12月03日
江戸時代の苗字のこと
「位牌石碑に限り苗字認め候儀、御免相成候」
これは、天保14年(1843)に水戸藩が出した郡庁達(ぐんちょうたっし)です。
庶民に墓石への苗字の彫り込みを法令を持って許可しています。
水戸藩のように法令にせずとも、江戸時代の苗字使用の制限というのは、結構緩いものでした。
農民や町人が苗字を名乗れないというのは、藩宛ての公文書の中で”公称”出来ないだけのことで、墓石に彫ったり、寺社に寄進したり、私信を書いたりする場合など、かなり自由に苗字を使っていたようです。
よく受ける質問に、
「我が家の江戸時代の墓にはちゃんと苗字が彫られている。武士だったか、苗字帯刀が許されていた家だったのでしょうか?」というものがあります。
もちろん、そのような場合もあるでしょうが、上記のような事情であることが多いものです。
これは、天保14年(1843)に水戸藩が出した郡庁達(ぐんちょうたっし)です。
庶民に墓石への苗字の彫り込みを法令を持って許可しています。
水戸藩のように法令にせずとも、江戸時代の苗字使用の制限というのは、結構緩いものでした。
農民や町人が苗字を名乗れないというのは、藩宛ての公文書の中で”公称”出来ないだけのことで、墓石に彫ったり、寺社に寄進したり、私信を書いたりする場合など、かなり自由に苗字を使っていたようです。
よく受ける質問に、
「我が家の江戸時代の墓にはちゃんと苗字が彫られている。武士だったか、苗字帯刀が許されていた家だったのでしょうか?」というものがあります。
もちろん、そのような場合もあるでしょうが、上記のような事情であることが多いものです。
2011年11月29日
京都の紅葉
現在の京都の紅葉状況。
今年は暖かい日が続いているため、美しい紅葉とは言い難い状況です。


今年は暖かい日が続いているため、美しい紅葉とは言い難い状況です。
清水寺
天龍寺
2011年11月05日
小倉城下絵図
↑「小倉藩士屋敷絵図」です。
この絵図は、幕末の安政年間(1854〜)に作成されたもので、当時の藩士の氏名が書き込まれています。ただ、藩士屋敷絵図というくらいですので、藩士のみであり、町屋は「町屋敷」とだけしか書かれておらず、商人などの名前の記載がありません。
これとは別に、「藩政時代小倉市内圖」という絵図があります。
この絵図は、上記絵図とは逆に、町屋敷だけに名前が書き込まれた絵図です。町屋ですので、苗字はなく「豊前屋彦兵衛」といったように屋号付きであったり、「大工源太郎」といったように職業付きであったりしています。
ただ、この絵図では、東曲輪だけしか描かれていないという弱点があります。
小倉城下は、小倉城を挟んで東西に分かれて町が広がっており、現在の小倉の商業の中心地である米町や魚町・紺屋町などを含む地域が東曲輪で、田町や竪町などを含む地域が西曲輪と呼ばれていました。
ちょうど私も西曲輪の田町周辺にあったであろう商家の調査をしているのですが、せっかくの「藩政時代小倉市内圖」が役に立ってくれません。
これを解決してくれるのが、小笠原文庫所蔵の 「小倉城下町屋之図」です。
この絵図には、西曲輪の町屋敷も描かれています。
小笠原文庫は、もともと旧藩主小笠原家の豊津別邸に保管されていたものですが、 育徳館高校の錦陵同窓会を経て、現在はみやこ町歴史民俗博物館に寄託されています。
ただ、残念なことに、この絵図は痛みが激しく現物を閲覧させてはもらえないのです。
近いうちに、絵図全体を撮影し、それを閲覧できるようにするとのことですので、私もそれまでじっと待っているところです。
2011年11月04日
福岡藩の分限帳
現在、ある福岡藩士の家系を追っていますが、いつものことながら福岡藩の分限帳調査には泣かされます。福岡藩の分限帳は、大藩の割にはまとまりが悪く、記載されている事項も石高や氏名その他僅かなもので、家系調査となると結構大変です。
現在、出版されているものとして、
@福岡藩分限帳集成
A黒田三藩分限帳
の2冊があります。
ただ、この2冊で江戸初期から明治初年までの全時期をカバーすることは出来ませんので、カバーされていない時代の分限帳を調べなければなりません。
ところが、厄介なことに、これらの分限帳が一か所に所蔵されておらず、いくつかの施設で少しずつ所蔵されているため、それらを廻らなければならないという無駄な手間が掛ってしまうのです。
たとえば、これがお隣の佐賀藩であれば、佐賀県立図書館に行けば全時代が分かりますし、長州藩であれば山口県立文書館で「毛利氏八箇国御時代」から明治初年までの原本そのものを見ることができるのですが・・・。
結局、まず県立図書館で調べ、福岡市立図書館→県立九州歴史資料館(小郡市)→九州文化史資料部門(九州大学内)と廻り、ようやく全時代をカバーできます。(細かく言えば、さらに他の機関もありますが)
特に、九大にある九州文化史資料部門はなかなか入室自体ができず、一か月以上は待たねばなりません。
なんとか一か所にまとめてもらいたいものです。

現在、出版されているものとして、
@福岡藩分限帳集成
A黒田三藩分限帳
の2冊があります。
ただ、この2冊で江戸初期から明治初年までの全時期をカバーすることは出来ませんので、カバーされていない時代の分限帳を調べなければなりません。
ところが、厄介なことに、これらの分限帳が一か所に所蔵されておらず、いくつかの施設で少しずつ所蔵されているため、それらを廻らなければならないという無駄な手間が掛ってしまうのです。
たとえば、これがお隣の佐賀藩であれば、佐賀県立図書館に行けば全時代が分かりますし、長州藩であれば山口県立文書館で「毛利氏八箇国御時代」から明治初年までの原本そのものを見ることができるのですが・・・。
結局、まず県立図書館で調べ、福岡市立図書館→県立九州歴史資料館(小郡市)→九州文化史資料部門(九州大学内)と廻り、ようやく全時代をカバーできます。(細かく言えば、さらに他の機関もありますが)
特に、九大にある九州文化史資料部門はなかなか入室自体ができず、一か月以上は待たねばなりません。
なんとか一か所にまとめてもらいたいものです。
福岡県立九州歴史資料館(小郡市)
ここでは、明和元年に家臣に提出させた先祖書「諸士由来写見」が所蔵されています。
2011年10月24日
過去帳の閲覧
本日は、筑豊のある寺院で過去帳閲覧をさせて頂きました。
ご住職さんは実に親切な方で、貴重なお話しとともに、過去帳や貴重な文書をも閲覧させて頂き、必要部分の撮影も快くご許可頂きました。
しかし、問題がひとつ。
過去帳には続柄が書かれておらず、「○○村 何兵衛」といった表現だけの箇所が多かったことです。江戸期のことですので、苗字がなく、これだけではご依頼者のご先祖の特定が難しいのです。
ただ、本件調査では、1700年初頭からの墓石が残されていますので、墓石からの情報と照らし合わせることで、ある程度正確な繋がりが証明されるかと思っています。
そもそも、過去帳を閲覧させて頂くこと自体が難しい場合が多いのですが、せっかく閲覧が出来たとしてもこのようなケースが少なくないのです。今回の場合は、古い墓石が充実していたから良かったのですが、この点が過去帳の調査の難しいところです。
ところで、このお寺に行く途中にNHKの方から電話による取材がありました。
事務所の電話を携帯に転送していたので、携帯で約20分ほどお話しをしました。
先月はサンデー毎日からでしたが、今回はNHKからで、私が作った誠に素人くさいホームページでも、結構いろいろな方が見てくれているようです。
「ご先祖を探す」ことをテーマにした番組を制作されるとのことで、詳しいことを聞かせて欲しいとのことだったのですが、ご住職との約束の時間が迫っており、かなり冷や冷やしながらの20分でした。
これから何度かお電話があり、それらをまとめたところで、番組を制作される予定とのことです。
ご住職さんは実に親切な方で、貴重なお話しとともに、過去帳や貴重な文書をも閲覧させて頂き、必要部分の撮影も快くご許可頂きました。
しかし、問題がひとつ。
過去帳には続柄が書かれておらず、「○○村 何兵衛」といった表現だけの箇所が多かったことです。江戸期のことですので、苗字がなく、これだけではご依頼者のご先祖の特定が難しいのです。
ただ、本件調査では、1700年初頭からの墓石が残されていますので、墓石からの情報と照らし合わせることで、ある程度正確な繋がりが証明されるかと思っています。
そもそも、過去帳を閲覧させて頂くこと自体が難しい場合が多いのですが、せっかく閲覧が出来たとしてもこのようなケースが少なくないのです。今回の場合は、古い墓石が充実していたから良かったのですが、この点が過去帳の調査の難しいところです。
ところで、このお寺に行く途中にNHKの方から電話による取材がありました。
事務所の電話を携帯に転送していたので、携帯で約20分ほどお話しをしました。
先月はサンデー毎日からでしたが、今回はNHKからで、私が作った誠に素人くさいホームページでも、結構いろいろな方が見てくれているようです。
「ご先祖を探す」ことをテーマにした番組を制作されるとのことで、詳しいことを聞かせて欲しいとのことだったのですが、ご住職との約束の時間が迫っており、かなり冷や冷やしながらの20分でした。
これから何度かお電話があり、それらをまとめたところで、番組を制作される予定とのことです。
2011年10月18日
雲仙にて
雲仙での調査の途中に寄った「温泉神社」で面白い狛犬を見つけました。
阿形(あぎょう)・・・先日アップした福江島の狛犬に似ています。

この阿形を横から見た画像がこれ↓

体の下に狛犬の胎児のようなものを抱えています。
これは何だろうと聞いてみようと思いましたが、社務所を覗くと誰もおられなかったので、分からず仕舞です。
吽形(うんぎょう)・・・木の枝に囲まれて、接写できず。
木の枝から覗く、シャープな体型と精悍な顔。狛犬には見えません。
さらに、吽形の前方に

なぜか一体だけしかありませんでしたが、肥前狛犬よりも大きくて、表情があります。
なかなかユニークな狛犬達に守られた神社でした。
ところで、温泉神社と書いて、「うんぜんじんじゃ」と読みます。
もともと雲仙は、温泉と書いて「うんぜん」と称していたとのことで、国立公園に指定された際に、雲仙としたらしい。
この神社は、雲仙岳(温泉山)を信仰の対象とする山岳信仰の拠点であり、島原半島に数多くある温泉神社の総本宮です。
祭神は白日別命(しらひわけのみこと)、速日別(はやひわけ)命、豊日別(とよひわけ)命、豊久土比泥別(とよくじひねわけ)命、建日別(たけひわけ)命の4柱が祀られているのですが、それぞれ筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の別名とされ、そこから「四面宮」とも称されていたとのこと。
ちなみに、ここ雲仙での宿泊はこちら↓

平日だから、宿泊客も少なく、料金も安め。
すぐ前が雲仙地獄ですし、料理も温泉も、そしてスタッフの方々も合格点のホテルでした。
阿形(あぎょう)・・・先日アップした福江島の狛犬に似ています。
この阿形を横から見た画像がこれ↓
体の下に狛犬の胎児のようなものを抱えています。
これは何だろうと聞いてみようと思いましたが、社務所を覗くと誰もおられなかったので、分からず仕舞です。
吽形(うんぎょう)・・・木の枝に囲まれて、接写できず。
さらに、吽形の前方に
なぜか一体だけしかありませんでしたが、肥前狛犬よりも大きくて、表情があります。
なかなかユニークな狛犬達に守られた神社でした。
ところで、温泉神社と書いて、「うんぜんじんじゃ」と読みます。
もともと雲仙は、温泉と書いて「うんぜん」と称していたとのことで、国立公園に指定された際に、雲仙としたらしい。
この神社は、雲仙岳(温泉山)を信仰の対象とする山岳信仰の拠点であり、島原半島に数多くある温泉神社の総本宮です。
祭神は白日別命(しらひわけのみこと)、速日別(はやひわけ)命、豊日別(とよひわけ)命、豊久土比泥別(とよくじひねわけ)命、建日別(たけひわけ)命の4柱が祀られているのですが、それぞれ筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の別名とされ、そこから「四面宮」とも称されていたとのこと。
ちなみに、ここ雲仙での宿泊はこちら↓
九州ホテルです。
平日だから、宿泊客も少なく、料金も安め。
すぐ前が雲仙地獄ですし、料理も温泉も、そしてスタッフの方々も合格点のホテルでした。


