2017年03月24日

陸軍中野学校の名簿

ご依頼人とお話をする中で、「親族の中に陸軍中野学校の出身者がいるらしい」とお聞きしました。
本来の調査の範囲ではありませんでしたが、私自身の興味も手伝って、調べてみることにしました。

ところが、いざ調べてみると、なかなか名簿のような文書が見つかりません。
本来、その全てが秘密になっている存在でしたので、そういうものかなと思っていたところ、国立国会図書館所蔵の中野学校に関する図書中に、名簿の記載があることが分かりました。

やっと手に入れた名簿を調べると、確かにご依頼人のご親族の方の氏名が書かれていましたので、早速ご報告させて頂きました。

この名簿には、教職員を含めた全関係者2,263名が記載されており、この内生存者1,458名、不明者376名、戦死者289名、その他の死亡者140名となっています。

占領地や敵地での諜報員として活動する特殊性を考えると、生還できなかった方がもっと多いのではないかと思っていましたが、意外な数字だと思いました。
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2017年03月14日

由利島

愛媛の話が続きます。

弊社のある福岡から愛媛県は、直線距離はたいして離れていないのですが、間に海があるだけに、効率が悪くて困ります。

いろいろな手段を試した結果、現在は車で山口県の柳井港まで行き、そこから防予汽船のフェリーに乗って松山市の三津浜港に上陸するというルートを取っています。事務所出発から三津浜港上陸までなんと約5時間半。時間的には、新幹線で東京に行くより遠いことになります。

前回のブログにも書いたとおり、5年ほど前から愛媛県内の調査が絶えることなく続いていますので、このような移動を定期的に行っています。

ところで、柳井港から三津浜港に向かう途中に右手に見えるのが由利島。
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この由利島、今ではTOKIOの「DASH島」として有名になってしまいましたが、昭和59年に椎名誠率いる“あやしい探検隊”がこの島でキャンプをしていて、その時の様子を『あやしい探検隊不思議島へ行く』に書いています。

その中で、以下のような興味深い記述がありました。
「ヤブの中にはけっこう沢山の家が並んでいて、伸び放題の生け垣をいくつか曲がっていくと・・・」

由利島が無人島になるのは、昭和40年のこと。
椎名誠氏はその19年後に訪れたことになりますが、その時点ではまだ“沢山の家”が並んでいたということです。

そもそもこの由利島が栄えたのは、平安〜鎌倉期のことです。
瀬戸内海の海上交通の要地として、その賑わいは“由利千軒”と呼ばれるほどだったとか。

大由利(大きい方の島)の西側の山の中腹には儀光寺という寺院もあったとかで、その儀光寺は今は松山市古三津一丁目に存在しています。

寺伝によると、「弘安年間(1278~1287)に起こった地震による津波のため島が壊滅状態となり、島民とともに当地(=古三津)に移った。」とあります。

調べたところ、弘安年間にこの地域周辺で起こった地震が特定出来ませんでしたが、とにかく鎌倉時代後期に起こった地震による津波によって、由利千軒と称された由利島の繁栄も終わりを告げたということなのでしょう。

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2017年03月13日

畝順帳(せじゅんちょう)

この5年ほど、なぜか愛媛県内での調査が途中絶えることなく続いています。
現在も2件の調査を進めているところで、直近5年間に限ると、地元福岡県を含め全国どこの都道府県より多い依頼件数となっています。

現地に行く度に、調査対象に直接関係するものだけではなく、その周辺の古文書や明治期の行政文書その他の撮影や複写を行っていますので、愛媛県内での情報の集積が膨大な量となってきています。

ところで、愛媛県内での調査では、現地調査に加えて必ず訪問するのが県立図書館です。
古文書の所蔵がかなり充実しており、かつ検索・閲覧もし易くて助かっています。

特に役立っているものの一つが「畝順帳」(せじゅんちょう)。
この畝順帳とは、地租改正の際に作成された土地台帳であり、法務局で閲覧する旧土地台帳より10年以上前の状況を知ることが出来ます。また、ほとんどがデジタル化されており、県内全地域のものを図書館内のパソコンで自由に閲覧及び複写が出来るというのが何よりの魅力です。

愛媛県内の調査を行う方にはお勧めの史料です。
posted by 仁四郎 at 07:35 | Comment(0) | 家系調査の方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月10日

恵美須神社(松山市)

松山市三津二丁目に鎮座する恵美須神社です。
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文政年間の古地図では「恵美須堂」と書かれていますが、その後「三穂神社」となり、さらに現在の恵美須神社と改称されたとか。

この神社の向かいには、大原其戎の居宅があったらしく、其戎の句に「初笑がほするや戎と向ひ同士」というものがあります。

ちなみに、大原其戎について、正岡子規は「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす。して今に至るまで他の師を得ず。」と書いています。子規が生涯に唯ひとり俳諧の師と仰いだ人物のようです。

ところでこの神社は、面白いことに、狛犬ではなく恵美寿様と大黒様がお守りされています。
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posted by 仁四郎 at 10:41 | Comment(0) | 各地の狛犬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

初詣

私事ですが、毎月1日は早朝から17kmほど離れた宮地嶽神社への朔日詣りを長年続けています。(ちなみに、この宮地嶽神社は、アイドルグループ“嵐”のJALのCM「光の道」で全国的に有名になった神社。)

ただ、正月だけは、参拝者が多過ぎて朔日詣りができていません。
正月だけしか来ない人たちと一緒に並びたくないという、誠に小さな根性からです。
このため、私が勝手に自分の氏神と決めている近くの神社に詣でるだけにしています。

そもそも、現在のかたちでの初詣というのは、古来からの伝統ではなく、明治の中頃から始まったものです。まだまだ100年を少し過ぎた程度の風習でしかありません。

会社も学校も休みで鉄道に乗る人が少ない正月に、なんとか空席を埋めたいと考えた鉄道会社の経営戦略の結果であり、言ってみれば菓子会社の戦力に乗せられてバレンタインデーにチョコレートを贈るようなものというのは、ちょっと言い過ぎか。

それでは、明治初期以前はどうしていたかというと、村の氏神社に詣でるか、せいぜいその年の恵方にある神社にお詣りに行った程度のようです。

このように、日本古来からの風習と思われていることが、実はそれほど歴史が古くないというものは、結構あるものです。

正月から捻くれた表現となってしまい恐縮ですが、本年もよろしくお願い致します。

wrote by 山崎
posted by 仁四郎 at 22:14 | Comment(0) | 日々のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月03日

島流しになった者の食費について

調査の過程で、福岡藩の流罪に処せられた者への対応について書かれた古文書があり、その内容が興味深かったので、ここでご紹介したいと思います。

福岡藩の流刑地は、玄界灘に浮かぶ大島や玄海島・姫島・小呂島で、この内では小呂島への流罪が一番重かったようです。

流罪に処せられた囚人は、刑の軽重によって、島での処遇が異なります。
重罪人は、遠島牢居が申付けられて牢屋入りとなり、軽罪者は配所の掘立小屋に収容されます。

ところで、彼らはどうやって食べていたのか?

まず、武士や他国からの旅人、宗旨改帳から除かれた者(つまりどこの町・村の所属でもない者)などは、藩から米が支給されました。これを“公儀飯”(こうぎめし)と呼びます。

これに対し、藩内の一般領民は、出身地の町や村の負担で米が支給されました。
また、商家や豪農などの奉公人は、その主人の個人負担とされており、これらを“嶋扶持”(しまぶち)と呼んでいました。

但し、嶋扶持は、元文2年(1737)に改正され、町や村などの溜銀からの支給となっています。

どちらにせよ、最低限の米は支給されていたわけです。

それでは、どの程度の支給があったかというと、ある程度以上の武士(直礼・半礼以上)は、一日に米一升が支給され、それ以下の下級武士(無礼)や旅人・一般領民などは、一日四合とされていました。

流刑地であっても、身分によって差が大きくありますが、とにかく島流しになったといっても、最低限の食生活は保障されていたということです。
posted by 仁四郎 at 23:08 | Comment(1) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月10日

家中間善悪之帳

福岡藩の黒田家の文書の中に、 『家中間善悪之帳』 というものがあります。
如水公自筆と書かれたこの文書は、江戸初期の黒田家臣団の人間関係を記したものです。

例えば、「中悪敷衆」として、次のような記述があります。
一、村田出羽  ニ悪敷衆
  三好助兵衛
  堀平右衛門
  吉田七左衛門

これは、村田出羽と仲が悪い者として、三好助兵衛・堀平右衛門・吉田七左衛門の3名がいるということです。

逆に、「中よき衆」の項では、
一、井上周防   よく候
  堀平右衛門
  黒田内膳
  田代半七
  手塚久左衛門
  高橋伊豆
  岡九郎次郎
  川村少五郎
  高屋九左衛門
  生田万介

井上周防と友好的な関係にある者として、堀平右衛門から生田万介までの9名が挙げられています。

堀平右衛門という人物は、村田出羽とは仲が悪いが、井上周防とは良好な関係だったようです。

このような家臣団相互の人間関係は、官兵衛自身が調べて書き留めていったもので、戦いやその他の仕事をさせる上で、誰と誰を組み合わせると良いのかを考えていたようです。家臣の主(あるじ)というより、教育者という色彩が強かった官兵衛ならではのものかと思います。

思慮分別はあるが少し慎重な栗山善助と、剛毅だが猪突猛進の欠点がある母里太兵衛という対照的な二人を義兄弟とし、お互いの長所を伸ばし短所を矯正させたことは有名な話です。

posted by 仁四郎 at 15:58 | Comment(2) | 歴史一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月03日

数百年前の埃

終日、大学の研究室で江戸期の古文書の調査を行いました。

古文書を調べた方ならお分かりでしょうが、古文書を捲った時には結構な埃(ほこり)が舞い上がります。

特に今日は、マスクを忘れてしまった上に、長い間誰からも見られていなかった大量の古文書を一日中見ていたため、口や鼻にいっぱいの埃が吸い込んでしまったようで、喉がいがらっぽくて仕方がありません。

古文書調査にはマスクが必須です。
posted by 仁四郎 at 19:45 | Comment(0) | 家系調査日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

三津の渡し

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松山市の三津〜港山の約80メートルの内港を2分ほどで繋ぐ小さな渡し船です。

正式な名称は「松山市道高浜2号線」という海の市道であり、船頭さんは松山市の職員であるとか。渡し船とはいえ、市道であるため、料金は必要ありません。年中無休で、朝7時から夜の7時まで運行されていますが、特に時刻表のようなものはありません。誰かが乗ってくると、すぐに出発します。

いつもは三津側に停泊していますが、対岸の港山から乗りたい場合は、手を振れば停泊中の三津側から迎えて来てくれます。手を振って呼んでも気付いてもらえない時は、乗場付近にベルが設置されていますので、それを押せばよいとのこと。

私も三津から港山方面に用事があったので、利用させて頂きましたが、私一人が乗ったところですぐに出発して頂けました。三津から港山まで内港の沿道をあるけば30分ほど掛かりますが、渡し船で2分です。

この渡し船の歴史は古く、戦国の幕を開けた応仁の乱が起こった応仁元年(1467)であるとか。

当時、港山(湊山)城主だった河野通春が城兵の糧食として米や野菜・魚などを三津から調達するために、港山と三津との間を渡し船で結んだのが始まりだったといわれています。

実に550年もの歴史を有することになります。

ちなみに、明治14年に三津の住民から架橋の請願があったとのことですが、実施されることなく、現在に至っています。

橋がある方が便利には違いありませんが、不便を楽しむというのも文化であるのかも知れないと、小さな船旅の中で思ってしまいました。(よそ者だから無責任に言っているのかも知れませんが。)
posted by 仁四郎 at 13:12 | Comment(0) | 日々のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

『水神』

新たな調査を始める際には、よくその土地に関わる本を読みます。
歴史小説であったり、司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズであったりですが、別にそれでその土地の歴史知識を得ようということではなく、なんとなく気持ちの上でその時代のその土地の風を感じたいという想いからです。

s_128822.png 今読んでいるものは、『水神』(帚木蓬生著)。
 17世紀後半の筑後久留米藩を舞台にした作品ですが、歴史小説にありがちなヒーロー物ではありません。

 大河筑後川の流域に位置しながら、台地にあるために川の水を引くことが出来ず、絶えず水不足に悩まされるという米作に適しない貧しい江南原(筑後国生葉郡)の5人の庄屋を中心とする作品です。

 この貧しさを自分たちの代で終わらせるため、筑後川に堰を造り、水路を巡らせて乾いた大地を豊作の土地にするという構想を描き、これを久留米藩に命懸けで嘆願し、遂にこの大事業を成し遂げるという実話を小説化したものです。

この本は、以前に1回読んだものですが、今回またこの筑後を舞台とする調査を行うことになったため、庄屋という立場に立って筑後国を眺めてみたいと思い、再度読んでいるところです。

なかなか胸を熱くする物語であり、自分もこのような人の胸を打つ作品が残せたらと思っているのですが、なかなか筆が進んでいません。
posted by 仁四郎 at 22:43 | Comment(0) | 日々のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする